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宮本和英ロング・インタビュー!(前編) 『nicola』『月刊シリーズ』の仕掛人が初めて語る編集人生秘話

2011/10/12
miyamoto

■『芸術新潮』時代

 

──“宮本和英”の名前が、小中学生向けファッション誌『nicola』や月刊シリーズを立ち上げた編集者としてメディアに出ることはこれまでもありました。ただ、そうした個別のお仕事についてではなく、宮本さん自身にフォーカスをあてて、編集者としての履歴を辿ったものはありませんでした。なのでこのインタビューでは過去から現在に至るまでのお仕事を辿って、宮本さんと写真の関わりについて浮かび上がらせていければと思います。公になっているプロフィールでは1955年東京生まれ、東京藝術大学美術学部を卒業後、1980年に新潮社に入社、『芸術新潮』編集部に配属……となっています。『芸術新潮』で担当した中で覚えている特集はありますか? 日本の古美術に対して新しい視点を投げかけたヒット企画「やさしい仏像の見方」特集(1983年3月号)も宮本さん企画ですよね。

 

僕の中で大きいのは「平城京再現」(1984年6月号)っていう特集ですね。まだデジタル時代じゃない頃に、レスポンス・システムっていう画像合成のコンピュータをたぶん最も早く使ったと思うんですよ。僕はもともと美術史専攻で、歴史が好きだったから、平城京みたいな古い建造物を観に行くんだけど、1/20くらいの模型が資料館の片隅に置いてあって、全然陽の目をを見てなかった。それで平城京の景観を再現したら面白いなと思って、奈良時代からの自然環境はわりと残ってるわけだから、模型と景色をレスポンスで合成してみようと。

 

──レスポンスは日本に何台もなかったですよね。

 

大変だった。まず実景を撮って、それから実景の写真にうまく当てはまるように模型を撮る、なるべく自然に近い角度と照明で。それを大日本印刷のコンピュータ・ルームで合成してもらって、ここを消してくれとか作業して。すごい時間がかかった。実は最初はCGで平城京を再現して短編映画を撮れないかなと思ったんだ。奈良時代の風景を再現できないかって。そんな話を菅原文太さんにしたのね。

 

──?あの菅原文太さんがCGに興味があったんですか?

 

うん、当時、菅原さんはある映画の企画でCGを使おうとしていたの。僕は学生時代に息子さんたちの家庭教師をしてたのでお付き合いがあって、菅原さんに話したら「面白いぞ、それ」って、東宝のプロデューサを紹介してもらったり、ちょっと動き出しそうだった。当時のCGは『TRON』みたいに未来のもの、誰も見たことがない架空のものを表現するのに使うのが主流で、過去のものを再現するって発想がまだなかった。過去のものはデータがあるわけだから、リアルな映像を作るのにちょうどいいって言われて火がついちゃってさ。あの時の自分にもう少し力があったら映画まで持っていけたんじゃないかな(笑)。

 

──映画がポシャった理由は?

 

その頃のCGができるスーパー・コンピュータ──スパコンって言ってたけど──は、動かすのにものすごく費用がかかってた。日本に2、3台しかなくて、そのうちの三菱総研にあるスパコンを使ってやると。でもそれがね、こういう映像を作るのにどれくらいかかるか試算してもらったら、数億円。スパコンのレンタル料だけで。今だったらパソコンで出来る内容だろうけど、当時はスパコンのレンタル料が1秒何千円って世界でね。それで映画は無理だなってことで、写真に変えたんだ(笑)。

 

──(笑)そんな経緯をふまえての再現企画の特集だったんですね。

 

でもこの特集は結構話題になったんですよ。いま見るととても稚拙かもしれないけども。レスポンスはまだコマーシャルのポスターとかで使われている程度で、写真と写真をできるだけ精密に、自然に見えるように合成するっていうのは大日本印刷も初めてだった。当時の『芸術新潮』の予算からすると特集にお金をかけすぎちゃったんだけど、歴史博物館みたいなところから展示したいからって写真の貸し出し依頼がよく来て、その使用料ですぐ回収できちゃった。再現モノは2回やったかな、平城京のあとに平泉の再現もやった。

 

■写真への目覚め

 

──美術史が好きだった宮本さんが写真に興味を持つきっかけはなんだったんでしょうか。

 

平成に変わった頃に『芸術新潮』で「写真家が選んだ昭和の写真ベスト10」って企画をやったんです(1989年7月号)。活躍してる写真家に影響を受けたり重要だと思う写真を10点上げてもらうアンケート企画。この時60年代、70年代の日本の写真のすごさを知ったわけ。たとえば森山大道『にっぽん劇場』、荒木経惟『センチメンタルな旅』とか。その前には土門拳もいるし、東松照明をはじめとする戦後派の時代……その時代の写真を見て仰天したんだよね。こんなすごいことをみんなやってたのかと。

 

──まだ日本の写真家のすごさが知られていなかった?

 

専門家には評価されていたけど、一般には知られてなかった。近い過去ほど意外と見ることも難しかった。写真展もやってないし、写真集の復刻もされてないから現物が見られない。そういう状況だったんだね。それで僕も古本屋漁りをはじめて、日本の写真家にのめりこんでいった。

 

──90年代に入ると『芸術新潮』誌上で飯沢耕太郎さんの「フットライト日本の写真」(1990年2月号~1992年5月号。のち『日本写真史を歩く』として単行本化)という連載が始まっています。

 

それはさらに昔の1920年代とか近代の写真を取り上げた連載だね。80年代は飯沢耕太郎や伊藤俊治のような、写真界に新しい批評家/評論家が登場してきた。伊藤さんなんて最初「ついにこんな人が出て来たのか」と思ったよね。外国の文献をはじめ色んなところから資料や情報を集めてきて、それをもとに写真批評・美術批評をする。みんな衝撃だったんじゃないかな、それまでの感想論みたいなのじゃないわけ、評論家といっても。ニュー・アカデミズムの始まりを感じさせた。

 

──飯沢さんのあとに、大竹昭子さんの連載「眼の狩人たちの肖像」(1993年4月号~1994年5月号。のち『眼の狩人』として単行本化。一部原稿は『彼らが写真を手にした切実さを』に加筆修正して再録)がありますね。

 

飯沢さんが日本の戦前の写真だったから、その次は現代の写真家たちをやろうと、飯沢さんと僕で大竹さんを口説いてね。写真は好きだけどわからないし、って彼女が言うのを、わからない人がやるからいいんだ、興味を持っていこうよ、と。

 

──単行本『眼の狩人』のあとがきには、宮本さんについて「氏も写真に興味を持ちはじめたところで、私と関心のレベルが近く、一緒に話すのは楽しかったし、対話の中からさまざまな示唆を与えられもした」と書かれていました。宮本さんにとってもこの連載は興味深いものだったのではないでしょうか。

 

ほとんど僕のためにやったみたいな感じだね(笑)。自分が写真家に会いたかったし、あの写真を撮った時はどんなだったかを知りたかったからね。これが編集者という仕事の醍醐味ですよ。

 

■フォト・ミュゼの立ち上げ

 

──大竹さんの連載で取り上げた写真家の作品を、のちに「フォト・ミュゼ」のシリーズでいくつか出版していますよね。フォト・ミュゼはフランスの「フォト・ポシェ」を参考にしたのだと思いますが、大判で高額で限定部数というそれまでの写真集の定型とは違った、小型で安価で量産可能な写真集のシリーズでした。

 

連載をやったことでもっと詳しく知っていくわけです。それに写真家と具体的に関係が生まれていく。それでだんだん過去の名作を復刻できないかなと思うようになって、単行本の部署に移って1994年にフォト・ミュゼってシリーズを始めるんです。写真集の名作文庫みたいなものを作りたかった。日本の写真家はすごくいい作品を残してるけど、見る機会がないと始まらないわけだから。

 

──なるほど、それで過去の名作復刻がラインナップにあるんですね。荒木経惟『さっちん』(1994年11月)、東松照明『長崎〈11:02〉1945年8月9日』(1995年6月)、森山大道『にっぽん劇場写真帖』(1995年12月)など……。

 

荒木さんの『さっちん』はもともと写真集が出てないんだよ。平凡社の太陽賞第一回受賞作で、荒木さんの出世作と言われながら誰も見られない。しかも平凡社が受賞作のネガを紛失しちゃったんだ。だから受賞作品は雑誌の掲載写真の複写しかこの世にない。ただし「さっちん」自体は荒木さんがずっと撮ってるから他にも膨大な量が残ってて、一度もまとめられてなかったから、それをやりましょうと。

 

──雑誌に掲載されたネガはほんの一部だったと。

 

荒木さんからさっちんのネガを全部借りて、どの写真を使うかって克明に見ていって、セレクションしてみたんだ。そうするとね、太陽賞に送ったカットっていうのがやっぱり傑作なんだよ。この膨大な中からやっぱりこの一点、っていうカットで、本当に一番いいのがネガがない。でもその時に、荒木さんの目は本当にすごいなって思った。写真家は撮ることが仕事だけども、セレクトする目、どうやって見せるかっていうことも、同じだけ重要なんだっていう。そういう話を、写真を持ちこんでくる若い写真家の卵たちに説教したね(笑)。ただ写真を漠然と持ってくる彼らに対して、君はこれをどう見せたいんだ? 無名時代の荒木さんはだね……ってね。

 

──フォト・ミュゼの『さっちん』も素晴らしいセレクトだと思いました。

 

デザイナーの鈴木成一の微妙なトリミングもすごくうまいんだよね。だからより躍動的な写真になってる。1mmのトリミングで表情が変わるんだよ。そういうセンスが彼は抜群。そこが鈴木成一のすごさ。いやあ、なんで平凡社は作らなかったんだろうね。

 

■渡辺克巳『新宿1965-97』の思い出

 

──他にフォト・ミュゼの中でとくに印象深いものはありますか?

 

決定的なのは渡辺克巳の『新宿1965-97』(1997年11月)。渡辺さんは若い頃、新宿歌舞伎町の流しの写真家でね、1ポーズ3枚200円で、色んな人を撮って、次の日に写真を届けに行くっていう仕事。それの集大成がこの写真集。多少才覚があったら流しの仕事なんて選ばないと思うんだけど(笑)、渡辺さんはなんか生き方が不器用で、でもみんなに愛されてる人だった。お酒が入ると豹変するんだけど、いい人だったな。

 

──渡辺さんはどこで知り合ったんですか?

 

知り合いのジャーナリストが連れてきました。僕よりずっと年上なんだけど、出版社の人に会うってことで、写真を一杯詰めたリュックを背負って、ピシッとした姿勢でカチンカチンになってるの。ハイッ、ハイッとしか言わないで、見るからに生き方が下手そうな人だった(笑)。でも写真を見たらすごくてね、これは集大成しよう、何ページになっても構わないからって。渡辺さんはこれで写真集を出せるなんてきっと思ってなかったんじゃないかと思うんだ。で、とにかくプリントしてくれと。それで毎週のようにリュックに背負って持ってくるのを、僕が新潮社の広いホールに全部並べてみて、順番を考えてさ。楽しかったよね。もうこんなの出せないよね。表紙の写真は新宿を根城にしていた組織の若い衆で、裏表紙は後に、その人が幹部になってる写真なんだ。

 

──(笑)すごい!

 

でね、渡辺さんは本当に不器用なんだなと思ったのは、この写真集が話題になって売れたんです。大きい賞こそ取れなかったんだけど、朝日新聞の夕刊の社会欄全面に取り上げられたりして。それからしばらくして電話がかかってきて、会ったら「仕事がなくなってしまって食っていけない……」って言うんだ。それまでは週刊誌のフリーの写真家をやってて、事件があったら「ナベちゃん、現場にすぐ行ってくれ!」なんて仕事で食べてた。でも写真集が出たら「渡辺さんにそんな仕事頼めません」ってなっちゃったわけ。写真集が売れて話題になって、仕事がなくなる写真家って、普通はありえないでしょう?

 

──不器用な人柄がうかがえるエピソードですね(笑)。

 

渡辺さんらしいなあと思って。その時は『週刊新潮』や『FOCUS』を紹介したんだけど。それくらい不器用な人だった。この写真集はアメリカでも評価されて、ニューヨークで展覧会をって話になって、すごいすごいって喜んで準備してた時に死んじゃったんだ。お別れの会の時に色んな人が一杯来たよ。表紙になった元幹部の人も来ていた、もう引退していたみたいだったけど。本当にみんなに愛されてる人だったんだね。

 

──そしてこの500ページ以上ある分厚い一冊が世に残ったという。

 

ちなみにね、桑原甲子雄さんの『東京1934-1993』(1995年9月)や藤原新也さんの『全東洋写真』(1996年6月)も何百ページもあるけど、こういう分厚い写真集を出すためにどうコストを下げるかってことをちゃんとやってるのが僕の偉いところで(笑)。普通に作ると8000円とかになっちゃう。それをどうコストダウンするかってことで、大日本印刷の担当者たちとチームを作って、色んな作業のコストダウンをして製版代を下げたんだね。驚かれたんだよこの値段(『新宿1965-97』は定価4300円)で出したことを。他社の編集者たちから、どうやったの、たくさん作ったのって。それなりに大変だった。ただ写真がすごいからまとめましたってことではなかなか世に出せない。やっぱりどんなにアートだろうと、価値があろうと、出版社は商品を作ってるわけだから、どうやって売れるものにするかっていう目に見えない地道な活動をやってたんだね。

 

■アウフォトとニコラ

 

──その後1997年に、宮本さんはビジュアル編集室室長という役職に就いてます。

 

そこでは米原康正と一緒に『アウフォト(アウト・オブ・フォトグラファーズ)』(1997年~2000年、全13号)っていうスナップ写真の投稿雑誌を季刊で始めた。使い捨てカメラで若い子が日記代わりに写真を撮るような状況が出てきた頃、そういうスナップがすごく面白いってことに気付いた。写真はプロだけのものじゃない、センスの良さで見せていく写真もあるよね、ってことで。

 

──ミュージシャンとか、有名人の写真も投稿されてましたよね。

 

そうそう、全部投稿だから全然お金がかかってないんだよこの雑誌(笑)。仲間内で作ってる、同人誌みたいな感じ。『アウフォト』は米ちゃんのテイストにのっかったんだね。彼はこの頃、こういうものに冴えてた。編集は米ちゃんで、写真の選定も米ちゃん。写真の投稿は小学生から自衛隊まで一杯来て、その中にセンスのいい人がいるわけだよ。その人を特集したりね。今見ると風俗的な資料にもなってるんだね。

 

──(雑誌をめくって)この写真に写ってるのは横尾忠則さんですよね?

 

そう。自宅からアトリエに行くときに横尾さんの奥さんが毎日横尾さんを撮ってるの。だから投稿者は奥さん。横尾さんには結構出てもらったね。横尾忠則っていうのはすごい巨匠なのに、結構一緒におかしなことをやってくれるんだよね(笑)。面白かったなあ。横尾さんの『瀧狂』(1996年3月)、『家族狂』(1996年9月)、『涅槃境』(1998年12月)って写真集も僕が作ったんだ。

 

──その『アウフォト』は『ニコラ』と併走してるんですよね。1997年春に宮本さんが創刊した『ニコラ』は小中学生の女子向けファッション誌という新しい市場を開拓した雑誌として有名です。

 

『ニコラ』創刊の前にチャイドルブームがあったんだよ。栗山千明、吉野紗香、野村祐香とか、12~13歳くらいの女の子が出て来て、今までの少女と違うと篠山紀信さんがいち早く目をつけて、前のめりで撮り始めた。それを僕が写真集にしてたわけ(篠山紀信撮影の『Namaiki』『神話少女 栗山千明』『少女たちのオキナワ』などは宮本編集)。それに中森明夫さん が「チャイドル」って名前をつけて、チャイドルブームが始まった。そのあとに『ニコラ』を創刊した。でも自分では少女趣味がなくて、どちらかというとビジネスとしてファッション誌の隙間を見つけた気分だったね。そういうものがやってみたいと。

 

──チャイドルブームのメイン読者は大人の男性ですが、『ニコラ』の読者は小中学生の女子ですよね。その視点の違いは意識されましたか?

 

そう、『ニコラ』は同世代の女の子向けだから全然違う。あの子たちを出したのは篠山さんだけども、『ニコラ』では篠山さんの視点っていうのはNGなんです。この子たちが出てれば同世代の女の子がファッションリーダーとして認めてくれるかというと違う。写真に対して男の子目線と女の子目線があることに、僕もやりながら気付いていくわけ。だから『ニコラ』の創刊号は、やっぱり篠山さんのおかげで発想したわけだから表紙を撮ってもらったんだけど、どんどん変えていったんです。ちょうど『ニコラ』が季刊から隔月刊に変わる頃ですね。

 

だから「少女」って言葉も禁止したんです。誌面の何処にも載ってないはずですよ、女の子たちは自分のことを「少女」って言わないから。それは大人の男性が彼女たちを見るときの視点で、そこにはエロティックなものが含まれているよね。だから「少女」って言葉は『ニコラ』では使わない。「女のコ(カタカナの「コ」)」。そこはすごく分けたね。

 

──そして1998年には月刊アクトレス、通称「月刊シリーズ」が始まります。この時期は傍から見てもすごい仕事量ですね。

 

錯綜してるんです。常に2つ3つのことを同時にやってる。『ニコラ』と『月刊』シリーズの編集長、あと写真集も出してるからね(笑)。一週間のうち2日は写真の持ちこみの対応でつぶれちゃうし、1997~99年の頃は睡眠時間が常に3時間。この時期は自分の人生で一番忙しかったよ。

(文=ばるぼら)

 

後編へ続く)

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